不器用な二人のための練習曲 Op.1 (男として、意識してくれないか) … 猫百匹 |
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
かつてのチームメイトが荒々しく指示を出している声、これから何処に寄ろうかと姦しく相談しながらすれ違う声、 遠くから響いてくるいくつもの楽器の声……。 足早に進むなか、全てが鼓膜を素通りしてささくれだった神経に障る。 普段なら意識もしない放課後の騒々しさが、少し平常心を失った心に容赦なく入り込んで不協和音を奏でだす。 いっそのこと、駆けた方がラクなんじゃないかという速さで進む脚を無理やり止め、何の気なしに窓の外を眺めると、 音の元になっている光景が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。 真夏一歩手前の眩い世界は、荒れ狂う心の内とは対照的に長閑で、何の悩みもなさそうな生徒を包み込んでいる。 それでも、個々の人物は何かしら悩みを抱えていて、ただそれを表面には出していないだけだとわかっているからこそ、 外の景色に一瞥をくれたあと片手をポケットに突っ込み、鞄を乱暴に肩に掛け直して再び脚を進めた。 ふと……雑音の中から、その脚を追いかけるように流れてきた音に気がつき、苦々しい笑いが漏れる。 長年、人知れず練習を積んできた耳よりも、本能に近い感覚が音の主を脳裏に浮かび上がらせていた。 風に乗って届く伸びやかな音色に、廊下を行きかう生徒も一人、二人、次第に足を止め顔をあげる。 ──日野らしい。 あいつは、そんなつもりは更々ないだろうけど。 バイオリンが好きだという気持ちを乗せた音色は、自然と人を惹きつけ、気がつけば……いつの間にか……。 浮かぶ気持ちに無理やり蓋をして、さらに脚を速めた。 音楽科の校舎に入ると流れていた空気が変わった気がして、詰めていた息を吐き出す。 急にもかかわらず、運よく予約がとれた練習室のドアを閉めると、放課後の騒々しさが遮断されて無音の世界が出来上がった。 こうやって、心の中で渦巻く雑音も簡単に閉め出せれば、苦労はしないだろうけどな。 そうもいかねぇから、眠れない夜を過ごす。 寝苦しい熱帯夜のせいには出来ないと、なにより自分が一番わかってる。 目に付いた机へ無造作に荷物を放り投げて椅子を引く。 ぎぃっと床と擦れる耳障りな音が、無造作に扱われた椅子の抗議に聴こえて、眉根が寄る。 どさりと降ろした脚につれる生地を直す手間も省いて、荒いため息をつきながら組んだ手首を揺らした。 わざわざ眼で確認しなくても、何度も繰り返し弾いてきた指は自然と広がり、鍵盤を押さえる。 押し殺した息以外は無音だった空間に、弦の響きが溢れ出す。 ……音が荒れてんな。 得意なはずの曲なのに、いくら弾き進めても指が空回りするだけで、ぎこちなさが消えてくれない。 胸の内を映し出した、ひび割れた音色に自嘲してからいくぶんタッチを弱める。 機嫌を損ねたショパンをなだめつつ頭の中の譜面を追うと、記憶は自然と数日前に遡りだした。 ◇◇◇ 「付き合ってもらっちゃって、ゴメンね?」 「俺も練習用の譜が欲しかったからな。ちょうど良かった」 「土浦くんが一緒に来てくれて助かったよ」 隣りを歩く日野が、降り注ぐ日差しにも負けない眩しい笑顔を浮かべ見上げてきた。 「あたし、その」 一瞬、視線を逸らし口ごもった姿を不思議に思うと同時に、また、くったくない笑顔が向けられる。 「ほら、あまり詳しくないからっ」 確かに、日野は驚くほど無知なところがある。 奏でる音色と対照的にアンバランスな知識は、バイオリンをはじめて間もないらしいという噂に真実味を与えていた。 その話題になると、決まって曖昧に逸らしたり慌てるのは、何か……俺のように……触れられたくない事情でもあるのかと 勝手に結論を出していたけれど、ついさっき気まずそうに噤んだのを見て大方ハズレってわけじゃなさそうだと確信した。 「ま、いいじゃねぇか? んなことは」 お陰で、こうして楽譜を探す手伝いを頼まれたという口実に飛びついて、休日の街中を並んで歩いてることだし。 口に出来ない本音を胸の中に押しとどめて、人で溢れる公園をゆっくりと進んだ。 「……ありがとう」 どこか弱弱しい笑いを零して、小さな声で告げられたのが何に対する礼なのか、あえて訊こうとは思わない。 誰だって、触れられたくない事はある。 それでもいつか、理由を自分から話して欲しいと、自分も話したいと願ってしまうのは何故なのか自覚していても、 出来上がってしまった距離が表面に浮かぶのを留まらせる。 偶然の出会いから同じ普通科というよしみで言葉を交わすようになり、気がつけば俺まで学内コンクールに出る羽目になっていた。 まさか、再び人前で弾くなんてと反発していた気持ちを無視してまで参加を決めたのは、いま隣にいるこいつの影響だ。 あの時は、その理由まではわからなかった。 ただ、胸の底で響く、この機会を逃しちゃいけないという声だけははっきりと感じていた。 今なら、あの説明のつかない感情も理解できる。 「おもったより早く見つかったから……きゃ」 隣を歩く日野に合わせたスピードが、時折吹き付ける海風に舞い上がらる髪を落ち着かせようと苦労しているのを目にして、さらに遅くなった。 「少し、休むか」 純粋に日野を気遣ってと言い切れない自分に、良心が咎める。 風が遮らなければ、用件は済んだから今日はこれで……と続けていたかもしれない日野を、親切を装ったセリフで留まらせたかもしれないんだ。 「そうだね」 肩に流れ落ちる髪を押さえながらほっとした顔で笑う日野に、まったく別の意味でほっとしたなんて悟られないよう、ベンチを探すふりをした。 「あっ、ありがと。うわ、冷たーい」 差し出した缶を頬に寄せ、無邪気に笑う日野につられて口元が緩んだ。 「子供かよ」 「だって、暑くて……もうっ、そんなに笑う事ないじゃない」 膝に下ろした缶を見詰めながら、拗ねた口調で頬を膨らませる日野を横目にプルトップを引く。 笑いを収めようとしてよりは、そうでもしないと永遠に見詰め続けてしまいそうな視線を逸らすためだった。 「確かにもうすぐ8月だからな。それにさっきの店、冷房きつかったし」 ベンチの隣、手を伸ばせば触れられる距離に座る日野を見ないまま缶を傾けると、冷たく弾ける泡が喉を落ちていく。 そろそろ梅雨も抜けようかという午後の大気は、吸い込んだ熱を吐き出す地面と混ざり合って、四方から体を取り巻きじわと汗を引き出していた。 「結構、長いこといたから余計に熱さが堪えるよね。あたしも、いただきまーす」 「あぁ」 真横で鳴る白い喉に視線が惹き付けられる。 「おっいしー」 適当に目に付いた自販機で買った、ごくありふれた飲み物を嬉しそうに飲む様子に、押さえつけている感情が胸の奥からじわじわと湧いてくる。 ただの同級生で終わりたくないんだ。 いつからそう思っていたのかはっきりと判らなくても、いま胸を過ぎるのは……こいつが好きだという強い感情だ。 バイオリンと音楽しか目に入っていないのは百も承知で、真剣に向き合おうとする態度は尊敬すらしているのに、 楽譜探しに誘われたのが俺だという事実に期待をしてしまう。 ……ったく、情けねぇな。 「土浦くん、どうかした?」 「ん?」 どこまでも無邪気に問いかける声が、まじまじと見詰めていた気まずさを増幅させて、後ろめたさすら連れてくる。 「いや、旨そうに飲むなと思って」 「う……いいじゃない、暑いんだもん」 自分でも下手な言い訳だと思いながら口にしたセリフに、真っ赤になって口ごもる様子からは、どう思われているのかを推し量る事が出来ない。 言葉一つ、さりげない態度、全てに何かを見出そうとしてしまう癖が、期待から落胆へと簡単に突き落とす。 いっそのこと、はっきりと訊けば答えはでるのに、それすら出来ないなんて……情けない。 「にしても、さっきの店……マニアックな譜も置いてあったし、穴場かもしれないな」 強引に変えた話題に、一瞬きょとんと首を傾げた日野がくすりと笑いながら、脇に置いた袋を覗き込む。 「バイオリンの楽譜だけでもかなりあったもんね。二つも買っちゃった。土浦くんは一つ?」 「あぁ。他にも気になるのはあったんだけど」 「え? それ何て曲?」 「ショパンの練習曲で……」 極自然に訊かれて、あたりまえのように答えようとした口を慌てて閉じた。 路地裏にひっそりと佇む店の、薄暗い棚にひそりと並べられた譜を、なぜ手にとってしまったのか。 表紙を目にした瞬間、日野がすでにレジに向かっていた事に、感謝した。 副題がつけられていない練習曲の方が多いのに、偶然にしては性質が悪い。 第7番 嬰ハ短調……タイトルは……恋の二重唱。 「土浦くん?」 戻ってくる足音にさりげなく棚に戻した時と同じように、名を呼ばれて我に返る。 「悪い……詳しいタイトル忘れちまった」 「なんだ残念。あ、でもさ、また行けばいいか。店員さんも親切だったし、いいお店だったもんね」 「そうだな」 話の流れが変わったことに内心安堵して、少しぬるくなった缶を一気に煽った。 「そういえば、あの店員さん……なんで土浦くんがピアノ弾くって判ったんだろ」 「ん?」 どちらかと言えば鄙びた感じのドアを開けた直後の会話が、二人の脳裏に蘇ってきた。 バイオリンの楽譜を探していると告げた日野に、レジの向こうから南楽器のオヤジに似た柔和な笑みを浮かべた初老の男性は、 棚の一角を口にし、ほんのわずかな間を置いて“ピアノ用はそちらですよ”と言葉を繋げた。 楽譜の種類といい、観察眼といい、あなどれない店だったな。 「指でわかったんだろ」 缶を持っていない空いた手を隣に差し出すと、顔を寄せた日野が“指?”と繰り返し呟き、不思議そうに見詰める。 「長いこと弾いてると指先がこうなるんだよ」 「ほんとだ。それで判ったんだー、なるほど」 「お、おい」 ようやく謎が解けたと言いたげな顔で、触れて確認しようというのか、指が重なった。 突然の出来事に、言葉と鼓動が跳ねる。 「あ、ゴメ……あたし、つい」 ぱっと離れた指のぬくもりと柔らかさが、目に見えない刻印になって感覚に刻み込まれる。 勘弁してくれ。 こっちは、つい、で……済ませられることじゃないってのに。 なんの前触れもなく触れた無邪気さが、ちくちくと胸に棘を増やす。 「あのなぁ……少しは男として、意識してくれないか?」 動揺を浮かべる指を髪に隠して、苦い物が広がる口が勝手に動いたと気が付いたときはもう、思いもよらなかっただろう言葉に日野が固まっていた。 「ごめん土浦くん。あたし、そんなつもり……」 ◇◇◇ ──ごめん。 ──そんな、つもりは……。 意識すらするつもりはないってことか。 最後の音の余韻が、うねりになって部屋に吸い込まれると同時に、白昼夢から覚めた目をしばたいた。 ほとんど無意識のまま、一曲全て弾き終えたことになる。 こんな状態で、これ以上ピアノに向かっても何の足しにもならないと考えるより先に、鍵盤の蓋をそっと閉じた。 重い足取りで校舎を抜ける間も、日野の言葉がなんども蘇る。 あいつが俺をどう見ているのか、驚いて発せられた言葉が物語っていた。 そうだろうと薄々わかっていたとはいえ、さすがに堪える。 目を丸くしている日野に、なんでもないと繰り返して帰路に着いたあの日から、こそこそ逃げ回るなんて女々しい真似を して顔を合わせていないのに、考えてしまうのはあいつのことばかりだ。 喧騒が残る学院を後にして校門へ顔を向けると、まだ白熱した輝きを注ぐ陽に軽く目が眩む。 その中で、頭から抜け出てきたかのように影が揺れた。 「あっ、土浦くん!」 真っ直ぐに向けられた視線と声に、踵を返す事も、そのまま通り過ぎる事も出来ず、複雑な感情が渦巻く気持ちを押し隠して、 いつも通り……ただの同級生として返事をした。 「良かった。ここで待ってれば確実だと思ったの正解だった」 「俺に何か用か?」 「う、うん、ちょっとね」 日野のペースにあわせて、ゆっくりと進む足取りはあの日と同じなのに、二人の間に漂うぎこちなさは今までの距離が変わって しまったことを物語っていた。 「たいした物じゃないんだけど、土浦くんに渡したい物があって。その……」 珍しくはっきりしない口調が、気まずさを増幅させて態度を強張らせる。 「だったら、わざわざ待ってなくても、うちのクラスのやつに預けりゃ良かったのに」 「そう、なんだけど……直接、渡したくて……それに土浦くんに話したいことが、あって」 ポケットに突っ込んだ指先から、すっと血の気が引いた。 話したいことって、どう考えてもあれ以外にないよな。 顔を合わせないようにしていたツケが、とうとうやってきたって訳か。 「あのねっ、この前の……」 指先が……こないだ日野の触れたのと同じ指先が、どんどん熱を失っていく。 「あのお店に、また行ってみたんだ」 「は?」 「土浦くん、他にも気になった楽譜あったっていってたじゃない? どれなのかなーってあたしも気になっちゃってね」 予想外の話題に訊き返す言葉も耳に入らない様子で、どこか忙しなく話し続ける日野の顔が赤く染まっているのは、 光の加減のせいだけとは思えない……気がする。 「でも、やっぱり判らなかった。でね、かわりといってはなんだけど、これ」 差し出された包みを受け取る指に、じりじりと熱が蘇ってきた。 「その、これ誕生日プレゼント。練習用の欲しいって言ってたから、どうかな? って。なんかね、曲名が珍しいから、 土浦くん持ってないんじゃないかって考えたんだけど」 「誕……あぁ、そういえば今日か」 「え? って、自分の誕生日わすれてたの!?」 「んな驚くなよ、いちいち自分の生まれた日を意識しねぇって。でも、わざわざありがとな」 リボンに包まれた楽譜なんて、はじめて見た。 ほどく指がもどかしく感じるほど、わざわざ同じ店まで探しに行ってきたという日野の気持ちが嬉しかった。 たとえ、ただの同級生として、し……か。 「この譜……」 ──あの日……あの店で偶然みつけて、そして慌てて奥に戻した楽譜が、時間を越えて手の中にいた。 「あとね、もう一つ土浦くんに聞いて欲しいことがあって」 「おぅ」 期待が喉を枯らし、鼓動を速くする。 「あたし……」 沈黙に止まる空気を一陣の夏風が流し、俯きながら髪を押さえる日野の表情を隠した。 「意識、してるよ? ずっと前から。土浦くんが、助けてくれた日から、ずっと」 雑踏の騒々しさにかき消されそうな声に耳を澄ましているせいで、聞きたいと願っていた言葉が幻聴になっているのか? 「じゃなきゃ、口実つくってまで、休みの日に誘わない、から。……それじゃ」 「あ、おいっ」 駆け出した体を引きとめようと咄嗟に動いた手からリボンがすり抜け、風にはためいて消えていくのを目の端で捕らえても、 追いかけようとは思わなかった。 「……待った。言い逃げはナシ」 「…………」 「俺も、話があんだ」 これ以上、情けない真似なんかしたくない。 男として意識してくれと言ったのは、自分だ。 だったら、ここで言わないと男じゃないだろ。 「俺は」 どくどくと流れる血が、耳の中でうるさく響くのに負けないようとしてなのか、やけに大きくなってしまった声に言葉が途切れる。 「おまえが好きだ」 黙って俯く日野の手首から伝わるぬくもりに飲み込まれそうになる感覚を抑えて、ずっと言いたくて言えなかった、たった一言を繋いだ。 遠くからかすかに響く汽笛の低音、苛立つクラクション、街中の雑音が返事を待ちわびる耳から抜けていく。 永遠にも感じる沈黙のあと、ゆっくりと振り向く日野の顔は夕陽を飲み込んだように赤く染まっていた。 「……あたしも、だよ」 やがて聴こえた短い返事は、最高の誕生日プレゼントになって、胸の中に温かい旋律を奏でだした。 |
back |